Kamegaya’s Style

カメガヤ創業当時のお話

当社の創業は、大正12年5月26日になります。

反町のガーデン下に6坪の亀ヶ谷薬局を開きました。しかしながら、開局して半年も経たない、9月1日に関東大震災を被災し、反町駅近くに移りました。物資不足の波が、一般市民の生活はもとより、小売店にも大きく押し寄せ、小規模の店が多い薬店業界では、その悩みは深刻でした。そこで、初代経営者の彦治が、薬業界に共同の組織を作るために奔走し、昭和10年に日本で最も新しい組織として神奈川薬友会をつくり、以降22年間会長を務めました。

しかし、初代経営者は彦治さんに間違いないですが、創業者は?と言われると、実は彦治の妻の『はる』なのです。

はるは、集落を洪水から守るために周囲を囲んだ堤防である輪中で有名な岐阜県海津郡の伊藤庄八の三女として生まれました。身寄りを失ったらしく、幼くして禅寺に奉公に出ました。幼少期を禅寺で過ごしたのちに、縁あって、東京府池上町(現在の東京都大田区)在住の三田銀蔵の養女となりました。はるは、学問に人一倍励み、修身と和裁の教師になり、創立期の大妻学院で、お作法と和裁の教師をしていました。

大妻学院の学祖大妻コタカさんは、女性誌が次々と発行され、女性が輝き始めた時代の潮流を受けて、「恥を知れ」の校訓のもと、「女性の自立」を旗印に女子教育界に登場しました。「実技実学」「有言実行」、「独立自営」「一致共同」がコタカさんの教えでした。大妻学院では、現在それを「関係的自立」という教育理念にまとめております。 「自立性」は、「人に頼るな、まず自分でできないかを工夫しなさい」、「人間は成長するにつれて志や目標はより強く高くなる。つねにその先を見つめ、努力を怠るな」というコタカさんの教えと響き合っていますし、「関係性」は、「人は独りで生きているのではない。周りから支えられて生かされている。つねに感謝の心を忘れるな」の諭しに通じています。この「努力」と「感謝」はコタカさん自身の終生変わらぬモットーでもありました。

現在「女性が輝く時代」が政府によって提唱されていますが、そこでは「輝く」とはどういうことかが改めて問われます。主要ポストに占める女性の比率だけが問題なのではありません。舞台の端役であっても主役より輝いている人が現にいます。コタカさんは言います、「貴女がそこにいるだけで周りの空気がパッと明るく匂い立つような女性であれ」「女性よ匂やかであれ」と。人はみなそれぞれに所を得て、その場を輝かせて生きているのです。はるは、大妻学院の教師として、コタカさんから影響を受け、また、逆に影響を与えていたことでしょう。

彦治は、愛妻と息子二人をスペイン風邪で亡くしていました。はるは、彦治さんの後妻となり、特技の和裁で生計を助けていました。はるは、和裁の内職として、さらに、亀ヶ谷薬局を開局しました。薬局であれば、人様のお役に立てるし、どんな時代にも必要とされるから、と考えたのでした。 はじめは、日に3人4人とみえるお客様がありがたく思われる毎日でした。

そんな最中、開局して半年も経たずして、関東大震災に被災し、全てを焼失してしまいました。 わずかに残ったザルで、近所の農家から卵を調達し、その卵を売って、何とかしのいだそうです。 そして、難局に挫けることなく、反町駅前に亀ヶ谷薬局を再び開いたのでした。はるは生前「商売は商い、あきないことが大切。あせらないで、ゆっくり長く続くように」、店が忙しくて家の掃除が出来ていないことを気にしていると「働きすぎて亡くなる人はいるが、ほこりで亡くなる人はいないよ。無理して掃除しようとしなくても大丈夫」、「1円を馬鹿にすると1円で泣くことになる」 、「お客様は、明るい所に集まるものだ。店はあかるく」 など、商売においての数々の示唆を示していたとのことです。

また、「反町の亀ヶ谷薬局ほど、きちんと清掃・整理・整頓された綺麗なお店はない」と問屋さんの間では評判で、お客様のために深夜11時まで営業していたそうです。男女は関係なく自らの意思をはっきりと持つ、そんな姿勢を体現した創業者『はる』の創業の精神は、今の当社にも脈々と引き継がれています。

【引用】 

通信研修No1(S43.11.30) 亀ヶ谷邦博作

『学校法人大妻学院ホームページ 理事長メッセージ』

http://www.otsuma.jp/introduction/message

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